FC2ブログ

スポンサーサイト  【スポンサー広告】
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。




太田光「メトロポリス」を語る(+ロボット三原則)考  【テヅカごと】
先月9月は、1日しょっぱなから
日本映画専門ch.で「メトロポリス」放映に始まった~
と思う間に、あれよとあれよと、ひさびさに副会長のティマ絵が拝めたり、
意外な絵師さんもメトロ好きであることが判明したり
やっぱこの映画イイっすよねそうですよねーと熱いメール応酬をしたりと、
嬉しい経験値がボーナス加算されていき、そのうえ、

次世代DVDで 名倉さん描きおろしジャケット で再発売ですってよ!

―と、このうえなく幸福なニュースで幕が降りました。
(栗栖さん、ステキ情報をありがとーう!)

まさかこの2007年になって公式の供給があるだなんて、
やっぱりこの映画は、地道にこっそりとかもしれないけれど、
確実に愛されている映画なんだなぁ、と思わずにはいられない。
愛さずにはいられない。
ああ、またDVD再生したくなってきたですよ…


 ・
 ・
 ・

…で。
そもそもの着火点であった肝心の
太田光語る「メトロポリス」@日本映画ch
なんですが。

しょっぱなから、テヅカマンガは「物足りない」発言をして、
「えっ お前さんまた何をっ」とハラハラさせてくれといて、
そこからダダ漏れになる
「こういう 映像 で手塚節を見てぇんだよぉぉ」感情のオンパレード。
公共の電波に放流される、もはや”解説”の域を超えた
超っ個人的にしてファンの私情にして駄々とも云える言葉の数々。
イイよイイよいっそ潔いよー 太田バカもう好きだ…!←オタクなりの褒め言葉


解説時間ギリギリまで、アナウンサーと
「なんだっけ、ほらあのー…フランス人みてぇな!
 ヒゲがこんなんなってる!悪い奴で出てくるの!」
と、スターシステムキャラについて喜々として語る太田がたいそう可愛らしかったです。
…そして結局、誰について語ってたのかは、最後まで不明だったです。
(ヒゲの悪人発言からして、もしハム・エッグだとしたら、
 太田の「フランス人」観を、一から問いただしてみたい)



…………

しかしですね。


アシモフを「ソ連の大作家」とのたまったのは、イイさ。
(確かにソ連出身ですし。事実ですし。
 …だけど、3歳でアメリカに渡り、8歳のときに帰化し、
 どっからどー見てもあっちのロボット観の基礎たりえてる
 アシモフ博士を”ソ連の人”と称されるのには、
 「瞳の中の訪問者」宍戸じょーB・Jくらい、違和感があるんだ ←局地的例え)

映画「A.I」の原作は
アシモフ博士の「われはロボット」だと云ったのも
…いや、もう… いいです。
(本当の原作者が、どの程度アシモフ博士の影響を受けてるか
 については、推論の余地があるかもしれない。うぅむ)


が、しかし。


アシモフのロボット三原則小説をもとに
手塚先生の 「鉄腕アトム」が 描かれた  …て

いやいやいやいやいやいやいやいやいやいや

そんな単純化された言葉で言いきられては、たまったもんじゃない。
ちょっと待て、突っ込ませてくれ、両方を愛するオタクの矜持として!!



うーん。平成アトムのころから、ロボット三原則と、そして
それとよく一緒に語られる「鉄腕アトム」のロボット法とについては
「あれっ」と思う事があるたびに日記などで書いていましたが、
やっぱり、また書かずにはいられない。
愛さずにはいられない(ロボットを)。
だからまた、書いてみますよ。長いよ。自立型無機物萌えヲタだから。


そもそも、「鉄腕アトム」のテヅカロボットとアシモフのロボット、
そして、「鉄腕アトム」のロボット法とアシモフのロボット三原則
てのは、その根っこからして属性が違う、全く別個の存在だと思うのです。
ロボットの行動を制限し、それゆえに葛藤や悲劇すらも生むそれらは
確かに、作用するその”結果”は似ているとしても、


・ロボット法 → ロボットの行動を制限する 【外的】要因
・三原則   → ロボットの行動を制限する 【内的】要因

であって、むしろ人間に置き換えた場合の
・ロボット法 → 法律
・三原則   → 本能(もしくは生理的欲求)
と考えた方が、より近い。

なので、(あくまでも)極端に云ってしまえば…

ロボット法的世界観の「鉄腕アトム」テヅカロボットは、
人間でありながら人間でない(と扱われる)のであって、
すべての悲劇は、そのジレンマに由来します。

ロボット三原則的世界観のアシモフロボットは、
その存在の前提からして元々が、人間ではないのであって、
ゆえに、そのようなジレンマからは解放されているのです。


※その観点からすると、最もアシモフロボットに近い
 テヅカ世界の異形はロボットではなく、むしろ
 「0マン」の0マンたちなんじゃないでしょうか。
 自分が人間でないことを自覚し、受け入れ、誇りにすら思うリッキーは
 人間に育てられ、人間に味方しても、ついには人間に同化せず
 当然の行くべき道として、笑顔で人間との決別を選ぶ。なので、
 アトムのような「人間のため」の自己犠牲的死とは、無縁です。涙…

「アトム」に漂う湿気のある物悲しい雰囲気と、
アシモフ小説にあるどこかクールでからりと乾いた空気、との違いはまさにそこかと。
(で、どっちも好きだからこそ、別個の存在として扱われて欲しいんだ)



ちなみに、このロボット三原則と明らかに違うテヅカ的ロボット観が
最も顕著に面白い形であらわれていたのが、
実は平成版アトムではなかったか~と思うのです。主張しちゃう。

平成版アトムでは、世界初の「心をもった」ロボット=アトムを
天馬博士が造り、あとでアトムを再起動させたお茶の水博士が、
そのAI設計を一般に開放し(これ、法的に問題はなかったのか…さすが治外法権のテヅカ界科学省)
そして民間でも「心をもった」ロボットがどんどん作られて、
やがて、青騎士の反乱に加わっていく… という流れがありましたが、
この場合の「心をもった」ロボットこそがテヅカロボット。
そして、それ以前の旧型ロボットがロボット三原則ロボットだったのだろう、と。

アトム以前のロボットたちも、喜怒哀楽の感情を持っていて、
「心をもった」ロボットなんじゃないかと思えるんですが、
彼らが明らかに違うのは、人間に故意に逆らう能力を持っていない、
つまり、あらかじめ組み込まれたプログラムとしての三原則を
踏み越えることはできないのです。

平成アトム世界の「心」定義とはすなわち「感情」ではなく「自由意思」。
(原作のアトムが、美的感覚や一部の感情を備えていなくても
 プログラムを越えた自意識と自由意思は持ってたことを考えると、
 この平成アトム世界観は、とても面白い。
 もっと端的に云えば、平成アトムの「心をもった」ロボットって
 つまり原作の「青騎士型」ロボットなのかも)


アトムは、旧型ロボットと違います。
一見、それまでのロボットたちと同じく三原則を踏み越えない子に見えますが、
それはただ、プログラムによって「できない」のではなく、
自らの意思で「しない」ことを選択しているだけなのです。
アトムだって、人間に逆らおうと思えば、いつだってそれを選択できる。
それは、アトムと同じ「心をもった」ロボットであるアトラスが
暴れることを悦び、同じく「心をもった」青騎士が人間との戦いを選択する時に
明らかになります。


そしてまた、そのアトムに理想を託して期待を寄せる天馬博士が…もう!
彼が何度も口にする「進化」とは、ロボットが後天的学習で
製作者の意図=プログラムを超える知性&自由意志を持つ事。
つまり、それこそが「心をもった」ロボット。
彼が「いつか人間を超える」と豪語する、理想の形。

で、その天馬博士がアトムに望む「進化」は、
いつか自由意思を発動して人間に逆らってくれること。
だというのに、当のアトムはと云えば、製作者のプログラムを超える
「自由意志」を持ってるがために天馬の意思に逆らえちゃって、
その逆らった結果が、天馬がロボットの「自由意志」に最も反すると考える
「人間との共存」だという皮肉な結末。


もう…、原作アトムで、たとえば「フランケンシュタインの巻」の
「もう我慢できません」と悪人をメッタメタにしちゃうアトムに見える
やろうと思えばできちゃうんだよ!て可能性とか、
たとえば「青騎士型ロボット」という定義に垣間見える、
ロボットの電子頭脳が自由意思を持ってしまえる可能性とか、
原作で、ちらりちらりと(断片的に)語られていた
明らかにロボット三原則世界観とは異質な、
テヅカロボットの「人間なのに人間でない」ジレンマを
ここまで明瞭に、面白い形に昇華してくれたってだけでも嬉しかったし、
その矛盾と皮肉を、天馬パパという人物に体現させてくれた
ところにもまた拍手だったのですよ、平成アトム。

監督のそういう意図が、本当はこうしたかった!けどできなかった感が
見え隠れしているところこそが、私が平成アトムを
今でも愛さずにはいられない理由だと思うのです…。


※ちなみに、アシモフロボットで最も人間臭い?ダニールは
 人類を思うがために、自我と苦悩と能力を手にして
 やがて、人類史二万年を織りあげていくのですが、
 それもあくまでも、人類と異質の存在であることを意識したうえで
 行ってるのがまた別腹で面白いんです、アシモフロボット世界は…!
 この絶妙なバランスのうえに成り立つダニールと人間ベイリの友情は、
 逆に云えばテヅカ世界では描けない世界なんだろうなぁ…。
 天馬博士という存在が、テヅカ世界でなければ描けないように。


そんなわけで、アシモフのロボット三原則とは
また別の世界観を造り上げているテヅカロボット観なんです が、
その片鱗がすでに、アトムより数年前の「幽霊男」に、
手塚先生が御年16歳(!)で描かれたという「幽霊男」に
現われてるのがまた面白い。

しかも、一見アトムのような(実際ルーツとも云われている)
美しく残酷な人間型ロボット・毒蛇姫に
製作者の意図を踏み越える行動をさせておきながら、
スイッチ一つで忠実な機械人形になり果ててしまうという
無機物的萌え設定を付加し、
それでいて、一見ただの機械人形のような
労働用ロボット・プポ氏には、
「たとえ機械でも人間と名のついた我々です」
とまで云わしめる自我と尊厳を与え、
しかもしかも!彼に
「生まれて何の愉しみがありませう」
「寂しく壊れてゆくのを待っているのですが
 いっそ誰か いっぺんで壊してくれないか」
「それが我々にとってこの上ない悦びです」
…と、自らの尊厳を守るために自らの機能を絶つという
おっそろしく人間くさい自我(と悲劇)までも与えているのが、
御年16歳のヲサム少年なんですよ… なんというフェイク!恐ろしい仔!

たしかに海の向こうでも、この6年前に
自らの無実を証明するために自殺(!)するロボット
アダム・リンクスのお話が書かれていますが、
(追記:さらにもっと前の1930年にも日本の漫画で
 労働者の怒りに同調したロボットの自殺が描かれています)
あの、1945年と云う閉ざされた時代に生きていた
内に膨らむ自我でいっぱいいっぱいの思春期まっさかり16歳の少年が、
それこそ、己の自尊心も自意識も命もへったくれも無いような状況で、
こんなロボットを描いていたという事実だけでもう、泣けてくる。


それを思うと、「幽霊男」から約半世紀後に公開された
映画「メトロポリス」のなかで繰り返される
「私は誰?」というティマの台詞は、
スイッチひとつで簡単に自我が切り替わってしまう
毒蛇姫の数十年を経た叫びとも云えるし、
また一方で、自我を持ってしまったがために却って
死すら望んでしまうプポ氏の影とも云える。

それでも、テヅカロボットたちは決して、
「火の鳥未来編」で、知力と自我を持ったことを嘆きながら
無力に死んでいったナメクジにはなりません。

「幽霊男」の直接の改変とも云える原作「メトロポリス」では
毒蛇姫の末裔であるミッチィが、人間として生き人間の親を探しながら、
やがて、プポ氏の末裔であるフィフィたちに請われて、人間に敵対する。
スイッチで他者に切り替えられていた自我は、
ロボット自らが 選 択 する自我へと変化するのです。

そしてまた一方で手塚先生は、この数年後に
もう一人の毒蛇姫の末裔であるアトムが、人間として生き人間の親に
捨てられたのち、今度は、人間の味方になる自我を選択させます。
お茶の水博士と云う、偉大なる凡人を通して。


空っぽになったコップに、どんな水を注ぐのか?
フィフィの請う道か。それとも、お茶の水博士の諭す道か。
ミッチィとアトムとの道の分かれ目はまさに、
人間としての自我を失ったところで、誰に出会って
誰にロボットとしての自我を指し示されるかの違いだったのですが、
この二つの道と可能性を、その作品世界の初期に提示したことこそが、
テヅカロボットたちを、三原則ロボットとは
異質のロボットたらしめている部分だと思うのです。

プログラムを軽く越えていってしまう、
可能性と、不安定さと、揺らぎと、美しさと。
だからこそ、テヅカロボットたちは
ロボット法と云う外的要因で、縛られなければいけないんです。
それゆえにこそ、テヅカロボットたちが
ロボット三原則的な良心を選択することは、何よりも尊いんです。

数ある可能性の揺らぎの中で、アトムが選んだ道の確固さ。
エネルギーのひもの揺らぎが物質を形造るのと同じように、確固と。


そして私はそんなテヅカロボットたちを、
そんなテヅカロボットだからこそ、きっと愛さずにはいられないのです。

スポンサーサイト




  ▲PAGE TOP▲




  
■からくり
 直球勝負が大好きです。
 でも変化球も好物です。  
 
 ▼--連絡用-- 



RSS 1.0 || HTML 4.01 || RSS FEED

FC2Ad

Powered by FC2 Blog

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。